ASローマはエンブレムを変えるべきという話
いずれの国も、みな伝承なり伝説なりを持っている。
ある日、突然「日本」という国が生まれたわけではないし、今回話していこうと思う古代ローマ帝国についても、「ローマは一日にして成らず」という言葉があるように
今日からここがローマ帝国!
という訳にはいかないのである。
「この国はどこで、自分はどこで生まれたのか」
そういった自分たちのルーツをはっきりさせたいという願望は、元来人類に備わっている基本欲求なのかもしれない。
印刷技術を開発したのがドイツのグーテンベルクであることは世界史における常識である。
活版印刷が発達する以前はもっぱら、口伝えの口承や、神話という創作物で補うしかなかった。
いずれも不確かな情報が多く、歴史に組み込んでもよいのかどうかは議論が分かれる。
旧約聖書の冒頭「創世記」ではアダムとイヴが人類のご先祖様。こいつらが俺らの先祖?
旧約聖書における人類の起源もそうだが、そういった神話伝承に科学的な妥当性を求めてはいけない。求められていない。
必要なのは民衆を納得させる程度の物語性と彼らの精神を高揚できるロマンがあれば、それでよい。
ASローマはエンブレムを変えるべき
古代ローマにおけるそれはホメロスが記した壮大な叙述詩「イーリアス」である。
イーリアス自体の知名度はさほど高くもないがこう言ったらどうだろう。
小アジア西岸の都市「トロイ」はギリシア軍に攻め込まれていた。
トロイ軍はめちゃくちゃ健闘するものの、ギリシア軍が置いていった大きな木馬を城内に入れてしまうという致命的なミスを犯してしまう。
そこから先は周知のとおり、木馬に潜んでいた兵士が絶賛睡眠中の敵軍に殴りかかるアレである。
有名なトロイの木馬ウィルス*1。都市は陥落しないがPCが陥落する。
この惨劇から、奇跡的に逃れることができたトロイの王の婿アエネアスは神の導くまま、現在のローマにほど近い土地に流れ着く。難民たちはようやく定住の地を見つけることができた。
アエネアスの死後、その息子アスカニウスはその地を去り、新たな都市「アルバロンガ」を建設する。のちのローマである。
とこのように古代ローマ成立までの道筋を追ってきた。しかしこの時点では「ローマ」という文字は歴史に存在してはいない。
正式にローマが建国されたのはロムルス・レムス兄弟の登場からである。
こいつらはアルバロンガの血をひく王族であったが、紆余曲折を経て*2オオカミに育てられることになる。
イタリアサッカーリーグ「セリエA」所属のASローマのエンブレムには母狼に育てられる幼いロムルスとレムスが描かれている。
そしてこのロムルスこそ「ローマ」の由来。
大きくなった彼はアルバロンガを武力を用いて征服した。
建国者ロムルスの名前をとって名付けられたと言われるローマはこうして誕生したのである。紀元前753年、4月21日のことである。
ASローマのエンブレム。めちゃくちゃ強いかと言われればうーん…である。
この頃になると、オリンピックの先祖「オリンピア」の競技大会も6回を数え、神話の世界から歴史の世界へと突入していく。
彼が建国したローマは王政、共和制、帝政を経て世界史の主役となっていくのだが、兎にも角にも
このロムルスが有能すぎた
まず立地。
前8世紀のイタリア半島には2つの民族が根を伸ばしていた。
1つ目が中部イタリアに勢力を拡大中のエトルリア人。
両者とも立地条件さえ整えば、堂々とした都市を建設できる経済的基盤と技術力を持つ民族であった。
ではなぜローマに入植しなかったのか
その理由は両者の持つ、都市建設の考え方に相違があったためである。
そもそも開拓の必須条件とは防御のための丘陵地、そして交通・交易のための海や川である。
エトルリア人もギリシア人も産業や交易を重視する勢力であったことには変わりないが、前者は防御重視の丘陵型、後者は交易重視の沿岸型の都市出しをより好んだ。
では、ロムルスが建国したローマを見てみよう。
ロムルスはテヴェレ川の下流、パラティーノの丘に都市を構える。
このパラティーノの丘は、丘と呼ぶには低すぎた。故に防御には適していなかった。
かつテヴェレ川の下流周辺は当時、海抜が低いのもあり湿地帯だった。
要するに、他の二大勢力から見て、ローマの土地自体の魅力は低かったのである。
しかしこの土地の特徴はローマが発展していくにつれて有利に働いていく。
低い丘陵というのは防御に適していない分、拡張発展に大いに貢献する。
そして技術が発展し、ついに干拓や治水技術を手に入れた古代ローマ人たちは、その広大な土地を思う存分活用していくのだった。
Senatus Populusque Romanus!(元老院ならびにローマの人民よ!)
ロムルス有能列伝はまだまだ続く。
ローマを建国し、その長となったロムルスも一人の王にはなろうとはしなかった。
なんと国政を三つの機関に分けたのだ。
日本でいうと、卑弥呼の時代である。
これが以降のローマ帝国の根幹をなす、基本的な統治システムとなった。
宗教・軍事・政治の決定権をもつ王は市民集会により、投票で選ばれると決まった。
そしてロムルスは各地域の族長を集め、元老院という政治ポストを与えた。
元老院の大きな役割は王に対する助言である。
日本の国会とは違い、民主的プロセスを経ず、身分や地位で決まるものだった。
それでもロムルスはこの元老院を公的機関として認めた。この公的な機関というところがミソ。
元々その土地の有力者に公的な地位を与えることで、王の政体基盤を確保するという狙いがあったのだろう。
これが私的な機関であったら、元老院の助言があっても結局は王の気まぐれで政治ができてしまう。公的機関として一定の権力を与えておくことで、その地域の協力を得やすくなる。
実際、ロムルスの治世で起きたサビーニ族との戦いを見てみよう。
4度にわたる抗争の末、ロムルスは和平を結ぶ代わりにローマへ移住するようサビーニの族長と交渉する。そしてこう提言するのだ。
- サビーニ族はローマの市民権を得る。
- 族長は元老院議員の資格を得る。
サビーニ族からしてみれば、勢いにのるローマとの間で協力体制を得られるだけでなく、自らもローマの政治へ参画することができる。
ロムルスにしてみれば、目下の課題であった人口の増加と兵力増強を同時に達成することができる。以後最盛期数十万の軍隊を保有することになるローマ軍団の最小単位、百人の兵士で一隊を組む百人制はこの時期に生まれた。
こうしてローマという国家の基本形態はできあがったのである。元老院の助言で王が政策を決める、その政策を市民投票にかけ、承認するのか否認するのかを決める。
直訳すると「ローマの元老院と市民」
ローマのマンホールや行政機関、いたるところにその名が刻まれている。
イタリアサッカーの名門ASローマはこの際、エンブレム中央の「母狼と乳飲み子」の代わりに、SPQRの文字を採用してはどうだろうか。ローマの象徴なのだから。